採用時提示賃金額への期待権~賃金支給額が採用時の明示額と違っている!

※作成時の法律、判例に基づく記事であり、作成後の法改正、判例変更等は反映しておりません。
この記事で扱っている問題

採用時に提示された賃金額と実際の入社後の支給額が異なっていた場合、会社に対し、なんらかの請求をおこなうことは可能なのでしょうか。

ここでは、採用時の労働条件明示義務、明示された賃金額への期待権、およびその期待権の侵害がなされた場合の損害賠償請求の可能性に触れながら解説します。

採用時提示の賃金額と支給額が異なる場合の問題

採用段階の提示と支給額が異なる場合の請求

採用時に会社から説明された入社後の賃金額と、入社後に実際に支給された毎月の給与あるいは賃金としての賞与の金額が異なっていた場合、従業員は何か会社に対し請求できるのでしょうか。

まず、

  1. 採用時に提示されていた賃金額と実際に支給された賃金の差額を未払賃金として請求する
  2. 採用時に提示された賃金額を受け取れることの正当な期待が生じていたのに、その期待を反故にされたとして、その期待に対する正当な権利を期待権と称し、その期待権が侵害されたものとして損害賠償請求をおこなう

という2つの方法を考えることができそうです。

採用前の労働条件明示義務による賃金額提示について

ここでは、法的な話なので、採用時に入社後の賃金額を明示する法的義務を会社が負っているのかも確認しておく必要がありそうです。

この点について、労働基準法15条1項では、

第十五条 使用者は、労働契約の締結に際し、労働者に対して賃金、労働時間その他の労働条件を明示しなければならない。この場合において、賃金及び労働時間に関する事項その他の厚生労働省令で定める事項については、厚生労働省令で定める方法により明示しなければならない。

労働基準法15条1項

として採用時の労働条件を明示する義務(以下、「労働条件明示義務」といいます。)について規定しています。

そして、同項の「厚生労働省令」として、労働基準法施行規則5条1項では、

第五条 使用者が法第十五条第一項前段の規定により労働者に対して明示しなければならない労働条件は、次に掲げるものとする。ただし、第一号の二に掲げる事項については期間の定めのある労働契約であつて当該労働契約の期間の満了後に当該労働契約を更新する場合があるものの締結の場合に限り、第四号の二から第十一号までに掲げる事項については使用者がこれらに関する定めをしない場合においては、この限りでない。
(中略)
三 賃金(退職手当及び第五号に規定する賃金を除く。以下この号において同じ。)の決定、計算及び支払の方法、賃金の締切り及び支払の時期並びに昇給に関する事項
四の二 退職手当の定めが適用される労働者の範囲、退職手当の決定、計算及び支払の方法並びに退職手当の支払の時期に関する事項
五 臨時に支払われる賃金(退職手当を除く。)、賞与及び第八条各号に掲げる賃金並びに最低賃金額に関する事項
六 労働者に負担させるべき食費、作業用品その他に関する事項
(7号~11号略)

労働基準法施行規則5条1項

として、賃金の決定、計算および支払の方法も、労働基準法15条1項前段において明示義務を課している労働条件に含まれることを規定しています。

したがって、会社は、賃金の決定、計算および支払の方法について、入社時に採用者に対して明示する法的義務を、労働条件明示義務の一環として負っていることとなります。

賃金の具体的金額の明示義務に関する問題

しかし、労働基準法では、賃金の決定、計算方法を明示する義務を定めていますが、具体的金額まで明示することまでは明文上求めてはいません。
そこで、果たして賃金の具体的金額を明示する義務があるのかが問題となります。

採用前の賃金明示が問題となった裁判例

採用への期待権侵害の逸失利益との関係が問題となった裁判例

採用前の賃金の明示が争点のひとつとなった近時の裁判例としては、採用内定を取消したことが無効であるとして、労働契約上の権利を有する地位にあることの確認、および採用面接段階で説明されていた賃金額を未払賃金として請求した事件(東京地判令和3年6月29日)があります。

この裁判では、労働契約の成立が認定されなかった場合の予備的請求として、労働契約を締結できることへの期待権(採用されることへの期待権)が侵害されたとして、その期待権侵害に対する損害賠償請求を併合しています。

裁判所は、内定は成立していないとして主位的請求を退けた上で、予備的請求の判断の中で、採用面接時の経緯について、

・・・被告の代表取締役・・・は,①・・・被告への転職を希望した原告に対し,採用された場合の給与が当時・・・社から得ていた給与(月額34万円)を上回る月額39万円となることをいわゆる定額残業代部分の有無も含めて明言し,②・・・被告の現場責任者・・・らとの面接(一次面接)を終えた原告に対し,同面接の結果が良好であった旨を告げるとともに,就業開始の具体的日程について言及しており,採用に関し確度の高い発言をしたものということができ・・③それまで,・・・社から複数の従業員が被告に転職しており,・・・との面接の結果転職に至らなかった事例も存在せず,④・・・社から被告に転職した・・・は,一次面接の後,・・・社を退職した際の手順を尋ねた原告に対し,原告も同様に採用されるであろうとの認識から・・・即座に,「明日・・・に辞意を表明してください」と具体的な手順を教示している。そして,原告は,これらの結果,それまでの待遇を上回る条件で被告に採用されることが確実であるとの認識を抱き,・・・退職届を提出したものと認められ・・・以上の経過を踏まえると,被告から書面等による正式な採用の通知はなされておらず,原告においても採用に至るには・・・との面接が必要であることを認識していたと認められることを踏まえても,上記の原告の認識(期待)は法的保護に値するものというべきであり,被告が,原告が・・・社を退職する直前(在籍最終日の2日前)になって,・・・の提示(給与月額39万円)説明を覆し,それまでの待遇(給与月額34万円)をも下回る条件(給与月額30万円)を提示した

東京地判令和3年6月29日

と認定しています。
その上で、この一連の行為は、「原告の期待権を侵害するものであって不法行為を構成する」と判断しています。

次に、予備的請求の逸失利益としては、

・・・被告の不法行為により,原告は,・・・以降,・・・社における雇用を失ったところ,・・・原告が・・・月以降,他の企業へ転職し,・・・社からの給与(月額34万円)と同程度の給与を得ていることに照らすと,原告が収入を失っていた・・・期間(2か月)における失職前の給与額に相当する68万円が原告の損害と認められ・・・原告は,・・・が約した給与額(月額39万円)が原告の損害である旨を主張するが,・・・・当該給与による労働契約の成立が認められない以上,これを原告の損害ということは・・・できない。

東京地判令和3年6月29日

と判示しています。

この事件では、労働契約の成立が認められていない以上、採用段階で説明されていた賃金額である月39万円の損害を観念することができないとして、採用されるとの期待の上で前職を退職したことにより、別の会社に勤務するまでの間に生じた離職状態の期間の損失について、退職した前職(および実際の転職先)の賃金を得べかりし利益である逸失利益と判断しています。

この裁判例は、採用に対する期待権侵害が認定されても、実際に採用に至っていない以上、採用活動中に提示された賃金額に対する期待権が保護されるものではないと判断したとも考えられます。

求人票に記載された賃金額の意味が問題となった裁判例

一方、少し古い裁判例ですが、新規卒業者の求人票に賃金として具体的金額を基本給の「見込額」と記載していた事件の控訴審(東京高判昭和58年12月19日)において、裁判所は、

・・・本件求人票に記載された基本給額は「見込額」であり、文言上も、また次に判示するところからみても、最低額の支給を保障したわけではなく、将来入社時までに確定されることが予定された目標としての額であると解すべきである・・新規学卒者の求人、採用が入社(入職)の数か月も前からいち早く行われ、また例年四月ころには賃金改訂が一斉に行われるわが国の労働事情のもとでは、求人票に入社時の賃金を確定的なものとして記載することを要求するのは無理が多く、かえつて実情に即しないものがあると考えられ・・・労働行政上の取扱いも、右のような記載を要求していないことが認められる。更に、求人は労働契約申込みの誘引であり、求人票はそのための文書であるから、労働法上の規制(職業安定法一八条)はあつても、本来そのまま最終の契約条項になることを予定するものでない。本件においても・・・採用内定時に賃金額が求人票記載のとおり当然確定したと解することはできない

東京高判昭和58年12月19日

と判示しています。

ここでは、新規卒業者の求人の場合、①実際の入社より相当程度前に求人票の記載がなされていること、②求人表も申込みの誘因(申込みの誘因とは、申込みを促す行為で、実際の申し込みがなされた段階で申込みを承諾するか別途判断されることが予定されているもの)にすぎないことから、労働契約が成立した段階でも、新規卒業者の求人票記載の金額が労働契約の条件と確定するわけではないとしています。

採用通知書との関係で賞与額が問題となった裁判例

採用通知書の記載による賞与に対する期待権が問題となった裁判としては、中途採用された従業員が入社から約6カ月半で退職した事件で、採用段階で提示された賞与及び年俸の記載と実際の支給額が異なっていたことを理由に、期待権が侵害されたとして損害賠償を求めたもの(東京地判令和2年12月15日)があります。

会社は、原告である元従業員に対し、入社前に「採用通知書」を交付しており、そこには、

1.基準賃金(月額)・・・円
※時間外労働の有無に関わらず,固定残業代として30時間分の時間外手当・・・円を,基準賃金に加え翌月の給与にて支給・・・
2.賞与
有り 時期,金額等についてはその都度,労使で交渉を行い決定する。
3.想定年収[月次給(固定残業代含む)×12か月分+賞与(目安値)]
・・・円 ※賞与は,前年度(4月~3月)の業績と直近半期(4月~9月又は10月~3月)の出勤率に応じて支給。上記に示す額はそれぞれ100%勤務した場合の理論値であり,実際に支給される年収とは異なる。

東京地判令和2年12月15日

と記載されていました。

原告は、

・・・本件採用通知書及び・・・日から・・・日まで出勤率100%の労務を提供した事実から・・・本件条項によれば,年間の賞与の額は,次の計算式のとおり・・・円と算定されるから,1か月の労務提供に対応する賞与は,これを12で除した・・・円と考えられ・・・原告は,上記のとおり,6か月半の労務を提供したのであるから,合計・・・円の賞与が支払われるものと期待した。
(計算式)
・・・【想定年収】-(・・・【基準賃金】+・・・【固定残業代】)×12=・・・

東京地判令和2年12月15日

として、年収の理論値と基準賃金から賞与の(想定)金額を算出しています。
そして、この算出した(想定)金額の賞与を受け取ることに対する合理的な期待権が生じており、その期待権が侵害されたと主張していました。

この原告の主張に対し、裁判所は、

・・・本件採用通知書における本件条項(「3.想定年収」)・・・において示されている年収は,月次給12か月分に賞与の「目安値」を加えたもので,「上記に示す額はそれぞれ100%勤務した場合の理論値であり,実際に支給される年収とは異なる」と明記されているのであって,その標題である「想定」の域を出るものではなく,これにより一定の給与を支給することを確定的に表示したものということはできない・・・

東京地判令和2年12月15日

と判示して、原告の請求を退けています。

ここでは、「想定年収」は「想定」の域を超えるものではないとして想定年収額支給への期待権の存在を否定しています。
とくに、この事件では「上記に示す額は・・・理論値であり,実際に支給される年収とは異なる」と明記されていることも判断に影響していると思われます。

このように、採用時の「想定」賃金額の記載に対する期待権の保護を過大に評価することはできません。
賞与の場合、一般的には業績と連動する部分も少なくないことから、当初より賞与額が確定できる年俸制などを採用しているような場合でなければ、採用前に提示される(想定)額に対する期待権保護の程度は高くならないことが多いものと考えられます。

上記引用裁判例の検討

上記に引用した3つの裁判例からしますと、

  • 採用に対する期待権侵害が認められても、実際に採用に至っていない場合、採用活動中に提示された賃金額に対する期待権が保護されるとはいえない
  • 労働契約が成立した段階でも、新規卒業者の求人票記載の金額が労働契約の条件と確定するわけではない
  • 採用時の「想定」賃金額の記載に対する期待権保護を過大に評価することはできない

ということがいえそうです。

採用段階で提示する、あるいは提示される賃金額に関しては、各々の間でとらえ方が異なることもあり得ます。
後日の紛争を回避するためにも、求職者は入社前の段階において提示された金額の意味(想定額、目安額、あるいは確定額なのか)を十分に確認することが重要です。

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