山の頂、稜線が県・市町村の境界と一致しない例と理由、帰属の判断基準

この記事で扱っている問題

山の頂あるいは稜線は、県・市町村といった地方自治体の境界とされているケースが少なくありません。
しかし、一部、山頂、あるいは稜線から少し外れた場所が境界となっている例も散見されます。

ここでは、山の頂、稜線が地方自治体の境界とされていない例、およびその理由について触れた上で、山頂、稜線の帰属について地方自治体間に争いがあった場合の、裁判所の判断要素、基準について判例をもとに解説します。

山と県・市町村の境界

山と境界

登山地図を見ますと、山頂、稜線が県・市町村など地方自治体の境界とされているケースが多いことに気が付きます。
しかし、登山地図をよく見ますと、山頂、稜線から少し外れた場所が境界とされているケースもあります。

ここでは、まず、山頂、稜線が境界とされている代表例をみた上で、境界となっていない例、境界不確定となっている例、およびそれらの理由について触れます。
その上で、山頂の地方自治体への帰属に争いがあり、その争いが裁判に持ち込まれた場合、裁判所がどのような判断要素、基準により、その境界を確定するのかについて、判例をもとに解説します。

尚、ここでは、複数の県・市町村名を列記する際、原則として北から南、次いで東から西に所在する県・市町村から順に記載することとします。
本記事の記載順は、紛争地点に関する特定の見解を示すものではありません。

北アルプスの場合

山が地方自治体の境界となっている代表的なのものとしては、北アルプスの稜線をあげることができます。

北は日本海から白鳥山、朝日岳を経て白馬岳手前、小蓮華岳への登山道の分岐点となる三国境までの稜線は、新潟県と富山県の県境となっており(尚、三国境は両県と長野県の接点となっています。)、三国境から白馬、後立山連峰の鹿島槍、針ノ木、更に烏帽子岳から野口五郎を経て鷲羽、三俣蓮華までの裏銀座の稜線は、長野県と富山県の県境となっています(三俣蓮華岳山頂では、両県と岐阜県が接しています。)。
その南の三俣蓮華から槍、奥穂、西穂から焼岳(実際は愛知県と接する三国山)までの稜線は、長野県と岐阜県の県境となっています。

山が境界となっていない例

飯豊山の場合

しかし、時折、稜線あるいは山頂付近で不自然に境界が入り組んでいる山を見かけます。
典型的な例としては、飯豊山をあげることができます。稜線からすると、三国岳で山形県・福島県・新潟県の3県が接するように思われ(実際「三国岳」という山名からしますと、そのように考えられているのだと思われます。)、三国岳から北西に向かう飯豊山、御西岳への稜線は山形県と新潟県の県境となりそうです。

ところが、登山地図でも分かりますように、三国岳から御西岳の山頂を越えた御西小屋あたりまでの稜線の土地は、細長く福島県となっています。
約4kmにわたり、稜線沿いの登山道が福島県となっており、その登山道の北側が山形県、南側が新潟県となっています。

これは、飯豊山が古くから信仰登山の対象となっており、飯豊山の山頂付近にある飯豊神社への福島県(会津)からの登山道が三国岳方面から続いていたためとされています。

山岳信仰と境界

古来、信仰の対象とされてきた山は多く(槍ヶ岳、笠ヶ岳が播隆上人により開山されたとされ、現在でも山頂に祠が設置されていること、南アルプスの地蔵岳のオベリスクの下には多くの石地蔵が祀られていること等からもお分かりになるかと思われます。)、その信仰との関係で稜線、あるいは単独峰の山頂が県・市町村の境界となっていないケースがあります。

飯豊山から比較的近いところでは、山形県と秋田県との県境の鳥海山付近は、県境線が北側へ入り込んでいます。
鳥海山には、現在も山頂付近に神社がありますが、古くから信仰の対象で、修験の拠点でもあったこともあり、山頂の帰属が単純に地形で決められないこととなりました(江戸時代には、幕府の評定がなされる等、複雑な経緯があります。)。

歴史的な事情から、山頂付近の地方自治体の境界の帰属が未確定になっているケースとして代表的なものは富士山です。
登山地図をみると分かりますように、山梨県と静岡県の県境線は山頂付近で途切れています。
本記事作成時点では、富士山の山頂の帰属(山梨県なのか静岡県なのか)は未確定のままとなっています。

筑波山山頂付近の境界の裁判

このような地方自治体間における山の境界線に関する紛争が裁判にまで発展したケースとして、筑波山の山頂の帰属に関する茨城県の真壁町(現桜川市)と筑波町(現つくば市)の間の訴訟(最判昭和61年5月29日)をあげることができます。

ここでは、地方自治体の境界に関し、どのような基準で裁判所が境界を確定したのかをみてみます。

1審の判断

この事件の1審(水戸地判昭和38年4月16日)では、裁判所は、紛争の経緯について

・・・真壁町は、旧真壁町及び旧紫尾村ほか三村とが合併あるいは編入により成立したものであり・・・筑波町は旧筑波町及び旧北条町ほか五村とが合併あるいは編入により成立したものであること、旧紫尾村と旧筑波町従つて原告真壁町と被告筑波町とが筑波山において境界を接していること、そして旧紫尾村及び旧筑波町時代から筑波山頂附近における境界に関し紛争があり・・・新町成立後も原被告間において境界争論が継続していた・・・右境界争論に関し自治紛争調停委員会の調停に付されたい旨申請したが、同県知事が関係町である被告からの申請がない等の理由から・・・裁定に適しないとしてその旨を通知した・・・
旧紫尾村は旧羽鳥村ほか三村が合併して成立したものであるが、旧紫尾村及び旧筑波町間の筑波山頂における境界に関しては、既に大正八年五月頃筑波山神社と旧紫尾村大字羽鳥・・・ほか五六名の共有者との間に神社境内地と右の者ら共有の大字羽鳥一五五八番山林四五町歩余の境界について紛議が生じており一、二度協議が持たれたが解決を見るに至らなかつた。その頃筑波山神社は山頂の境内地に接する共有地が伐採され神域の尊厳に影響することをおそれたためか、大正一三年四月土砂押止並びに風致林を目的として保安林申請をなし、右共有地の一部三町六反歩余が一時保安林に指定されたことがあつた。その頃筑波山鋼索鉄道株式会社が設立され山頂までケーブルが架せられ山頂が漸次開発されるに従い境界確定の議が持ち上り、大正末年頃筑波山神社側、旧紫尾村及び旧筑波町から代表者が集まり暫時原告主張の翁石、神楽石、仏場、稲荷石、塚、帽子岩、無名石の七つの目標を連結する線をもつて境界とすることに協議が成立し、翁石、神楽石及び無名石に堺標として石柱を樹てた。その後数年は小康を保つたが昭和五年五月に至り訴外会社が右稲荷石を移動させ滅失させ更にその頃筑波町側の者が右堺標を撤去したことから再び物議をかもした。そこで当時の紫尾村長・・・は、筑波町長・・・の立会を求めて右稲荷石の所在した位置を確認し訴外会社社長・・・にも右位置を確認させ一まず紫尾村主張の境界を保全する措置を講じたが、当時の茨城県内務部長からの勧告もあり旧筑波町を相手取り県参事会へ境界裁定を求めるべく準備中のところ、村会議員のうち筑波町側へ内応する者があつたりして遂に県参事会への裁定申請をなすに至らなかつた。その後国際情勢が悪化しやがて今次大戦となるに及んで右境界争論のことは一時沙汰止みとなつていた。ところが、戦後ケーブルが復活し筑波山が絶景の観光地として、又恰好の電波中継地として着目され、筑波山頂が世人の注目を惹くようになるに従い前記境界争論も再燃され、原告真壁町において前述の如く県知事に対し境界争論裁定の申請に及んだものである

水戸地判昭和38年4月16日

と認定しています。

そして、境界線の確定に関しては、

・・・地方自治法第五条第一項には、普通地方公共団体の区域は、従来の区域によると定められており、右にいう従来の区域とは、地方自治法施行(昭和二二年五月三日施行)当時において従来都道府県、市町村の区域とされていた区域を指すものである。しかして、地方自治法施行前の市町村の区域に関しては・・・従来の区域による旨定められ、それ以前の旧市制、町村制(明治二一年四月一七日法律第一号)の第三条には、およそ市町村は従来の区域を存して変更せずと定められ・・・市制、町村制施行の際に特に廃置分合又は境界変更の手続を行つたものの外は従来の区域をそのまま踏襲する立前であつた・・・しかして、市制、町村制の施行前における町村の区域は、郡区町村編成法(明治一一年七月二二日太政官布告第一七号)によつて定まつたもので・・・郡区町村編成法も新たに町村を創設したものではなく、従前から地方団体として存続していたもの、その伝来的な区域として定まつていたものに従つて新制度を作つたものに外ならないから、その区域に疑のある場合には結局旧幕時代まで遡らねばならないであろう。従つて市町村の区域あるいは境界の確定にあたつては、従前の地方団体の廃合の経過、伝来的な区域の変動の経緯等の沿革について検討しなければならない

水戸地判昭和38年4月16日

と、その判断には、明治維新前まで遡って考察する必要があるとしています。

その上で、

・・・市町村の区域、その境界は、絵図、公図、記録等によつて認識される伝来的な区域の変動に関する沿革から判定されるべきであるが、右に関聯して・・・市町村の区域は、論ずるまでもなく、市町村の行政権行使の地域的対象であり、その客体であるから、その区域を限界付ける境界は、識別の明確なることが要請される。これ従来市町村の境界が、多く山岳、分水嶺、湖沼、河川等の地勢上の特性、巨岩怪石等自然物を目標として定められてきた所以である。従つて境界不分明につき新たに境界線を裁定ないし確定するについては、右の自然的条件を考慮に入れるのが相当である。

水戸地判昭和38年4月16日

として、境界が不明であらたに裁定・確定するには、

  • 山の稜線などの自然環境

も考慮されるとしています。

更に、

・・・市町村の区域は・・・行政権行使の客体で・・・市町村の境界はいわば右行政権行使の地域的限界付けをなすものであるから・・・関係市町村の従前の行政権行使の実状・・・、広域地方公共団体である都道府県の関係機関あるいは国の関係行政機関における・・・従前の事務処理の実状が考慮せられねばならない。
又更に・・・その変動の如何は直ちに当該地域の住泯の福祉に影響するところが多いから・・・住民の社会、経済上の便益の点を勘案して総合的な展望的な見地からする資料をも加味して決定されなければならない。

水戸地判昭和38年4月16日

と、

  • 行政権行使の実情
  • 住民の利便性

なども判断要素となるとしています。

そして、

町村境は前述の如き理由により外部からの識別の明確なることが要請されるとするならば、前記認定の如く地勢上の特性、境界標識として恰好な確固不動の自然石等が存在することから考えると、原告の主張線をもつて勝れりとするのが相当

水戸地判昭和38年4月16日

として、

  • 地勢上の特性
  • 境界標識として恰好な確固不動の自然石の存在

などから、原告の主張に沿った判断を下しています。

控訴審の判断

しかし、被告の筑波町が控訴した控訴審(東京高判昭和57年6月30日)においては、

地方自治法第五条第一項は、「普通地方公共団体の区域は、従来の区域による。」と規定しているが、この従来の区域については、これを定めていた明治四四年法律第六八号市制第一条が「市ハ従来ノ区域ニ依ル」とし、同年法律第六九号町村制第一条が「町村ハ従来ノ区域ニ依ル」としていたにすぎず、さらに遡って明治二一年法律第一号市制及町村制によっても、市制第三条が「凡市ハ従来ノ区域ヲ存シテ之ヲ変更セス」と定め、町村制第三条も町村について同様の規定をおいていたのみであり、同法により廃止された明治一一年七月太政官布告第一七号郡区町村制編成法第二条も「郡町村ノ区域名称ハ総テ旧ニ依ル」と定めるにとどまっている。したがって、市町村の境界は、古来からの沿革に基づく従来の区域が明治政府によってそのまま存置され、それが現在の市町村の区域を定める基礎となっているものと解される。

東京高判昭和57年6月30日

と明治維新以前の古来からの沿革にもとづく区分が明治政府に引き継がれ市町村の区域を決まる基礎となったと判示されています。

その上で、

護持院の寺領である境内地の北側は、幕末期に至るまで、三方境、お迎石、石重ねにまで及んでおり、それが筑波郡の及ぶ範囲でもあったといわなければならない。
被控訴人は、古来山をもって国郡町村界を画するときは山の分水嶺をもって境界とするのが一般であり、筑波山もその例外たりえないと主張するが、分水嶺をもって境界とするというのも例外がないわけではなく、筑波山神社が男体山及び女体山を神とする山岳信仰に始まり、これをとりまく境内地が分水嶺の両側にわたり一箇の寺領として支配されてきたなど、前認定の諸事実に徴すると、被控訴人の右主張は採用することができない。

東京高判昭和57年6月30日

として、1審の判決を変更し、山頂の付近の寺領の境界から山頂から外れた場所を境界とする控訴人(被告)の主張に沿った判断をしています。

ここでは、控訴審は、山の分水嶺(自然地形)より、寺領の境界という歴史的経緯を優先した判断を下したといいえます。

上告審の判断

この控訴審判決に対し、被控訴人(1審原告)の真壁町が上告しましたが、最高裁はまず、次のように判示しています( 最判昭和61年5月29日 )。

・・・明治一一年七月二二日太政官布告第一七号郡区町村編制法・・・明治二一年法律第一号町村制・・・明治四四年法律第六九号町村制・・・現行の地方自治法・・・それぞれ、町村の区域については従来のそれを引き継ぐこととしている。したがつて、今日における町村の区域は、結局のところ、江戸時代のそれによるということになる。
なお、以上の各法令は、一定の場合に町村を廃置分合し又は町村の境界を変更若しくは確定する手続を定めており、これらの措置がとられた場合には、それに伴い定まつた区域によることはいうまでもない。そうすると、町村の境界を確定するに当たつては、当該境界につきこれを変更又は確定する右の法定の措置が既にとられていない限り、まず、江戸時代における関係町村の当該係争地域に対する支配・管理・利用等の状況を調べ、そのおおよその区分線を知り得る場合には、これを基準として境界を確定すべきものと解するのが相当である。
そして、右の区分線を知り得ない場合には、当該係争地域の歴史的沿革に加え、明治以降における関係町村の行政権行使の実状、国又は都道府県の行政機関の管轄、住民の社会・経済生活上の便益、地勢上の特性等の自然的条件、地積などを考慮の上、最も衡平妥当な線を見いだしてこれを境界と定めるのが相当である。

最判昭和61年5月29日

これによれば、地方自治体間の境界が不明な場合、現在から遡って確認することとなりますが、明治以降に法定の変更、または確定の措置が取られていない場合には、江戸時代の支配・管理・利用等の状況を調べ、その上でおおよその区分線が分かる場合には、その区分線を基準として境界を確定することになります。
これは、明治維新により境界が新たに設けられたとするのではなく、行政組織においても江戸時代の区分線が明治以降の境界に引き継がれていたことを前提としていると言い得ます。

しかし、江戸時代に遡っても、上記の区分線が不明な場合、

  • 歴史的沿革
  • 明治以降の関係町村の行政権行使の実状
  • 国又は都道府県の行政機関の管轄
  • 住民の社会・経済生活上の便益
  • 地勢上の特性等の自然的条件
  • 地積

などを考慮して境界を裁判所が確定することとなります。

このように、裁判所が確定する場合に寄って立つ基準も多岐に渡り、山の頂上、稜線などの地形は境界を定めるにあたり考慮される一要素に過ぎず、事情によっては、歴史的沿革、住民の社会・経済生活上の便益の方が重視されるものといえそうです。

今日における飯豊山などの山頂付近の県境線が、江戸時代の山岳信仰の影響を引き継いだものであることは、上告審の上記判示に整合的なものといえそうです。

現在の登山地図

尚、この裁判の後、筑波町はつくば市に編入され、真壁町は合併により桜川市となり、現在の登山地図をみましても、桜川市とつくば市の境界線は、筑波山の山頂である男体山、女体山の頂上部分で、北側(桜川市側)に入り込んだ形となっています。

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